国語の問題

偶然、ネットで国語の問題をみかけました。問題の中身はこんな感じです。

 

【問題】

「叔父が海外に行く」「私は父と見送りに行った」「急いで見送りに行った」という内容を一文で表したとき、解釈をする上で誤解の生じないものはどれか。

 

ア 父と私は急いで海外に行く叔父を見送りに行った。

イ 父と私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った。

ウ 私は父と海外に行く叔父を急いで見送りに行った。

エ 私は父と急いで海外に行く叔父を見送りに行った。

 

*****

正解が“イ”だってことは、なんとなくわかります。けど、なんとなくなんです。なんで答えられるのかっていったら、長年の日本語生活で培った感覚だとか、経験としかいいようがない。

 

子どもから「どうやって解けばいいの」って聞かれたら、みなさんならどう答えますか? 宗一郎なりに考えてみました。

 

まず、不正解の文章の誤りの箇所を確認します。

 

[正解]

イ 父と私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った。

 

[不正解]

ア 父と私は急いで海外に行く叔父を見送りに行った。

急いで“海外に行く”or“見送りに行く”のどちらとも取れる

 

ウ 私は父と海外に行く叔父を急いで見送りに行った。

父と“海外に行く”or“見送りに行く”のどちらとも取れる

 

エ 私は父と急いで海外に行く叔父を見送りに行った。

急いで“海外に行く”or“見送りに行く”のどちらとも取れる

父と“海外に行く”or“見送りに行く”のどちらとも取れる

(設問エについては、設問アとウの合わせ技のような感じですね。)

 

今回の問題は、“父と”と“急いで”それぞれの置き場所が論点になります。

 

まず、ひとつめの“父と”について。

“と”という言葉は、なにかと一緒だとか、同じという並列の関係を意味します。

そこで、“父と”が入る位置と、それに呼応して並列となり得る単語のパターンを確認してみます。

 

                                    並列となり得る単語

父と私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った。 ⇒ 私

②私は父と海外に行く叔父を急いで見送りに行った。 ⇒ 私 or 叔父 

③私は海外に行く父と叔父を急いで見送りに行った。 ⇒ 叔父

④私は海外に行く叔父を父と急いで見送りに行った。 ⇒ 私

⑤私は海外に行く叔父を急いで父と見送りに行った。 ⇒ 私

⑥私は海外に行く叔父を急いで見送りに父と行った。 ⇒ 私

⑦私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った父と。 ⇒ 私

 

結果として、②と③のみ、父は叔父と海外にいってしまう可能性があります。④に至っては、確実に父は海外にいってしまう。

 

②と③の特徴はなんでしょう?

まず、“父と”が、叔父よりも前に置かれている。ってことがありそうです。

 

①も“父と”が、叔父よりも前に置かれています。

けれど、②③との違いは、“父と”が主語(私は)に入っていて、述語(海外に行く~)とは区別されていること。なので意味が途切れ、叔父と海外に行く可能性がなくなった、といえそうです。

 

また、③の文章で、もし“海外に行く”という文言がないと、どうなるか。

「私は父と叔父を急いで見送りに行った。」となり、並列となり得る単語に“叔父”だけでなく“私”もでてくる。よって、確実に海外に行くとみられていた父が、私と見送りに行く可能性が浮上してきます。

 

これらをまとめるとこんな感じです。

 

[確実に父が海外に行ってしまうパターン]

“父と”が叔父よりも前にある & (“海外に行く”などの)“父と”をさらに修飾する言葉がある

 

[絶対に父が海外に行かないパターン]

“父と”が叔父よりも後ろにある or 叔父のいる述語から離れて、私のいる主語に入る

 

*****

次に、ふたつめの“急いで”について。

これも“急いで”が入りうる位置と、修飾され得る言葉のパターンをみてみます。

 

                                    修飾され得る言葉

急いで父と私は海外に行く叔父を見送りに行った。 ⇒ 見送りに行った

②父と私は急いで海外に行く叔父を見送りに行った。 ⇒ 海外に行く or 見送りに行った

③父と私は海外に急いで行く叔父を見送りに行った。 ⇒ 海外に行く

④父と私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った。 ⇒ 見送りに行った

⑤父と私は海外に行く叔父を見送りに急いで行った。 ⇒ 見送りに行った

 

偶然でしょうか、“父と”と似たような結果になりました。

 

②と③だけ、“急いで”が“海外に行く”にかかる可能性があり、③では“海外に行く”の一択です。

 

“父と”と同様に、“海外に行く”よりも前にある。けれど、①のように、“急いで”が主語(父と私は)にあると、述語にある“海外に行く”は修飾されない。

 

③で、仮に“海外に”という文言を消す(父と私は急いで行く叔父を見送りに行った。)と、修飾され得る言葉が、“海外に行く”だけでなく、“見送りに行く”の可能性がでてくる点も同じです。

 

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この手の問題。つまり、“父と”だとか、“急いで”などの修飾語の位置によって、修飾される単語を考える問題には、なんらか共通の法則がありそうです。

 

それは、

1.修飾語(A)は、原則修飾される言葉(B)の前に入る

2.ただし、修飾される言葉(B)が主語に含まれている場合は、その限りではない

3.修飾語(A)をさらに修飾する言葉(C)がつくと、修飾される言葉(B)は、修飾語(A)の直後の単語に限定される。

ということ。

 

 

むずっ!どこの子どもがこんなややこしい解説に耳を傾けてくれんねん!

この問題、市販の解説とかって、どんなことが書かれてるんだろう。めっちゃ見てみたい。

 

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日本語を勉強している大人の外国人って、耳とか音からではなく、こういった理論から学んでいってるってことなんだと思います。そりゃあ、時間もかかるし、途中で挫折する人も多そう。

 

そして、同じように英語を理論(文法)から学んでいる我々日本人も…(以下略)

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憲法は死んでいる

突然ですが、日本国憲法は“生きている”と思いますか? “死んでいる”と思いますか?

 

憲法学者の間には、“憲法の生死”という考え方があります。

どういうことかというと、たとえ憲法自体が廃止されてなくても、憲法の精神が無視されているのであれば、効力を失う=死んでいるとみなすというものです。

 

例えば、ドイツのワイマール憲法

第一次大戦の敗戦後、ドイツ革命によりワイマール憲法が生まれます。国民主権が導入されたり、大統領を直接選挙で選ぶことになったり、労働者の社会権が保証されるなど、当時世界で最も進んだ憲法だと評価されていました。

 

ところが、ワイマール憲法はあっさり死んでしまう。その主人公になったのは、言うまでもなくヒトラー

 

1933年3月23日に、全権委任法という法律が可決されました。この法律は、法律を制定する権利、つまり立法権を政府に与えるというもの。本来、法律の制定権は立法府である議会のものであって、行政府のものではないというのは、議会政治の基本中の基本。

 

ところが、全権委任法によって、議会は立法権ヒトラーに譲り渡してしまった。この結果、彼は合法的にドイツの独裁者になれた。

憲法学者は、「全権委任法は違憲だから、無効である」とは考えない。なぜなら現実として、この法律でヒトラーは独裁者になっているから。だから、1933年3月23日をもって、ワイマール憲法は死んだと考える。

 

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そう考えると、今の日本国憲法って死んでるのではって思うことがたくさんあります。

 

たとえば、生活保護を受けるべき人が受けられずに苦しむ実態がコロナ禍で顕在化されると、“本当に個人として尊重されているの?(第十三条)”とか、森友問題なんか本当に“公務委の不正行為を賠償(第十七条)”できてるの?って感じます。

 

“奴隷的拘束を受けない(第十八条)”ってあるけど、奴隷と変わらない働き方を強いられている人は少なくありません。一方で、”勤労の義務を負ふ(第二十七条)“といっても大金持ちは守ってないでしょ、などなど。

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第十二条の条文は下記文言になっています。

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、“国民の不断の努力”によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

宗一郎は、“国民の不断の努力”の部分がポイントだと思います。自分たちの自由とか権利って、口をあけて待っていれば手に入るものではなくて、それ相応の努力(国家権力が法律をちゃんと守っているかを監視するなど)がいるってことを再認識させられます。(この文言が憲法自体に含まれているのもユニークです。)

 

そして、この“国民の不断の努力”のやり方って、時代とともに変化してきました。

 

昔は、多くの人が血を流して、革命を起こすといった方法が頻繁に試されたり、現代では選挙による国民のジャッジや学校教育で政治の選球眼を養うという方法が主流だったりします。

 

一方で、選挙は投票率が低位であることや、提示された政策の選択という、国民にとって受身の取組みであることが課題だったりします。

教育も効果の測定自体が難しい。また、政治の必要性を感じるのは、失業や病気、出産など、人生に変化が生じるときだから、(それほど変化のない)学生時代に学んでも切迫感がもてないということもあるでしょう。

 

なにより選挙は民意を反映できるチャンスが数年毎にしかなかったり、教育も効果がでるまで少なくとも数年はかかるという時間的制約が大きい。

 

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じゃあ、これから“国民の不断の努力”ってどう変化していくのか。宗一郎は、現政権への評価をよりタイムリーに、より個別具体的に行った方がいいのでは?と思います。

 

直観的にそう感じたのは、最近の新変異株(オミクロン株)出現で思い切った入国制限政策や、10万円の子育て給付金の支給方法変更などの政府の取り組みからです。

 

これら政策決定において、政権与党は相当世論に気を使って、国民の意に沿うような意思決定をしているようにみえました。

 

そうさせているのは、もちろん総理が菅さんから(自称聞く力のある)岸田さんに変わり、前政権の反省を踏まえた対応の現れともいえるでしょう。

 

ただ、それだけではなく、国民の意見をリアルタイムで表現できる仕組みの登場、このインパクトも大きく関係していると思います。

 

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最近、YahooのWebサイトでは、政策を含むニュースやエンタメ、スポーツなど、あらゆる項目で頻繁にアンケート調査を実施しています。また、主に企業のマーケティングに活用されているYou tubeのアンケート機能や、テレビのdボタンだって、政策に民意を反映させる仕組みに昇華できる余地は十分あります。

 

オンライン選挙の実施について議論がされていますが、こういった取り組みは、もはやリアルタイムかつ大規模な“国民投票”が実施できているともいえます。

 

ひとつひとつの政策の評価の積み上げが、政権全体の支持率につながると考えれば、政府はこれらの調査結果はますます無視できなくなるでしょう。

 

テクノロジーの発展により、人口の増加や時間的・空間的制約から解放されたいま、より直接的な政治を志向していってもいいタイミングではないかと思います。

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逸失利益

逸失利益という制度があります。

 

事故などで支払われる損害賠償金のひとつです。賠償金の内訳は、精神的苦痛に対する慰謝料や葬儀費用などで構成されますが、その中でも逸失利益は高い割合を占めます。

 

この逸失利益、どうやって金額が計算されるかというと、“将来得られたはずの収入や生活状況”をベースに算出されます。

 

例えば、35歳男性が事故で亡くなった場合、年収800万円のAさん、共働きで子ども二人を育てていると、賠償金はおよそ1億4000万円になります。一方、年収300万円で独身のBさんでは賠償金はおよそ5000万円と、金額が大きく変わります。

 

また、性別や障がいの有無によって計算根拠が異なったり、在留期限のある外国人労働者は日本ではなく祖国の物価水準で計算され、逸失利益が低くなったりします。

 

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なかでも辛いのは、被害者が障害者や未成年者であるケース。

 

例えば、(聴覚などの)障がいがあること理由に、事故を起こした側が賠償金を低く提示することがあります。

 

・聴覚障がい者は、思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職も難しい

・たとえ就職できたとしても、被害者の聴力はコミュニケーションに重大な支障をきたすため、職種が限られ収入は低くなる

こんなことを加害者の意見として聞かされる。

 

また、大学受験を直前に控えた高校生が事故で寝たきりとなったケース。

 

家族は大卒の平均年収での算出を求めたのに対し、相手側は中卒や高卒を含めた全学歴を基準にすべきと主張。被告の主張を覆すためには具体的な証拠が必要なため、家族は作業療法士の志望動機が記載された書類を提出。

 

すると今度は、めざしていた介護職の平均年収は低く、たとえ就職しても大卒平均には到底及ばないとして職業を理由に減額を主張。

こんなやり取りが延々繰り返される。

 

家族の“悔しいというか、2度殺されたという気持ち”“過去のことを掘り下げて調べないといけないのはしんどい”といったコメントは至極当然でしょう。

 

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この制度、“性別や学歴、障がいの有無によって、いのちに値段がつけられること”だとか、“不確実性が高い社会で将来の収入を計算すること自体が困難”など、抱える課題は多い。

 

なかでも、宗一郎が一番問題だと思うのは、“被害者の心情に寄り添っていない”制度だってことだと思うんです。

 

ただでさえ、家族が亡くなったり、大きな障がいをかかえることになった状況で、これ以上精神的な苦痛が生じさせないことを最優先にすべきでしょう。

 

被害者が求めているのは、“加害者の誠実な態度”であるのに、こんな交渉事が始まった途端、そういったことが見えなくなってしまう。加害者側だって、嫌がらせが目的で減額を主張している訳では決してないでしょう。だけど加害者にだって、家族がいるなど、金額交渉が必要となるなにかしらの事情があることは想像に難くありません。

 

また、収入が得られる蓋然性(物事が実際に起こるか否かの確実性)の証明のために、被害者側が証拠を集めなければならない、という(精神的・肉体的な)負担の問題もあります。

 

逸失利益を算出自体も大きな課題でしょう。

 

“将来得られたはずの収入や生活状況”で計算されるといっても、実際は予測がつくようなものではありません。

今収入がたくさんあっても、その後どうなるかわからない。失業するかもしれないし、お金を稼げなくなるかもしれない。あるいは、今は非常に低い収入だけど、将来大成功するかもしれない。

 

こんなことをどうやって証明していくのかというと、いくら緻密に、どこまでやってもフィクションです。

 

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なので、事故の当事者間で金額を交渉する今の仕組み。まずはこれを変えないといけない。

 

例えば、収入面の損失と精神的な苦痛について、収入面は公的な保険制度(健康保険の傷病手当金のように、世帯収入の3/2を補償するようなイメージ)を適用して、機械的に金額が決まる仕組みにする。

それに加えて、現行制度は慰謝料の占める割合が小さいので、それを増やすことによって、最低限補償的なものをつくるという方法もあるでしょう。

 

とにかく、“当事者同士が交渉する”だとか、“属性によって金額が大きく変わる”といった要素を無くす努力が必要です。

 

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最後に、今の制度を是とすることが、すなわち司法が格差を肯定しているといった社会へのメッセージになってしまうことも危惧されます。

 

・学歴や性別、障がいの有無などの属性が不利に働く=社会的に生産性の低い人と判断することは許されるのか

・そもそも、社会において生産性が絶対であるといった価値観は正しいのか。

 

こういった疑問に対して、逸失利益の制度は果たして耐え得るのか、ということです。

 

この制度を考えることは、どんな社会を生きていきたいのかを考えることそのものである、ともいえると思います。

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カーリング観戦って面白くないですか?

今、カーリング北京五輪最終予選の真っ最中です。宗一郎は、このカーリングという競技の観戦が好きで、今回も熱心に応援しています。

 

その理由のひとつが親しみやすさ。

競技自体、(ほんとはめっちゃ難しいんだろうけど、)老若男女が楽しめるスポーツって印象です。実際、生涯スポーツとして親しまれているし、50歳を超えるご夫婦が日本代表決定戦に出場していたりもします。

 

また、日本代表チームをみていても、なんでか身近に感じるんですよね。そもそもチーム編成が、各チームからの選抜ではなく、地元チームをそのまま採用するので、もともとチームの雰囲気ができあがっている。

 

生い立ちなんかも、カーリングが盛んな北国の町に生まれて、お父さん・お母さんがやっているカーリングに興味をもち、幼い頃から競技を始めた。同じ町の友だちと一緒にチームを組んでめきめき力をつけ、気がつけば町ぐるみで応援してもらえるように。そして、今ではオリンピックでメダルを狙えるまでになった。そんなサクセスストーリーが生まれそうなチームなり選手が多いんですよね。

 

なので、宗一郎も一町民のひとりになったつもりで、自然と応援したくなってします。それに、カーリングという競技を通じて、地元の仲間と充実した生涯を送る。そんな人生も歩んでみたかったっていう、一種の憧れであったりもします。

 

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もう一つの魅力は、“考える面白さ”が伝わってくること。

カーリングはストーンを投げるごとに考える時間が設けられます。なので、その間に、解説者のコメントを踏まえながら、次の相手の考えや氷の状況を読んでいかに有利に試合を運ぶかという、選手の“思考の流れ”を共有したり、一緒に考えたりといったことが楽しめます。

 

スポーツってフィジカルだとかテクニックを重視しがちだし、もちろん大切なんだけど、それだけじゃなく“考える力も超重要”なんだってことを認識させてくれるのが、カーリングなんだと思います。

 

例えば、サッカーだって、攻撃側が巧みなパス回しで翻弄できれば、ディフェンダーが守備で動き回るうちに、物理的にどうしてもできてしまうスペースが生まれる。攻撃側は、そのスペースを突いてゴールを狙う。

 

そのスペースをつくるための“ボールのパス回し”と、カーリングで相手に点数を取らせない“ストーンの置き方”、そして将棋で王将を取りにいく“駒の置き方”って、同じ考え方がベースになっていると思うんです。

 

ただ、サッカーの場合、そういった緻密な状況判断を秒単位でこなしながら試合をしていて、かつスピーディーな試合展開が醍醐味だから、素人目には監督や選手の意図を汲み取る前に試合がどんどん展開してしまう。

 

一方で、カーリングは選手の意図を咀嚼する間合いを、適度なタイミングで与えてくれるので理解がしやすい。(しかも、選手はマイクをつけていて、試合中の選手の声も聞くことまでできちゃう。)

 

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一方、カーリングにおいてストーンを意図する位置に投げるためには、テクニックやチームワークが求められ、当然にしてミスが生じることもあります。難しいショットと自分の力量を天秤にかけた判断だったり、ミスしたときの臨機応変な対応といったことも、ゲームを構成する重要な要素です。

これは、将棋やチェスのような、意図したところに確実に駒を置ける競技とは対照的です。

 

そんな“思考のプロセス”と“運動能力に起因する不確実性”の両面をバランスよく楽しめるところが、宗一郎がカーリング観戦が好きな理由なのかなと思います。

 

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ほとんどのスポーツってフィジカルやテクニックの凄さに目を奪われがちだけど、試合中、選手がいかに考えているか(頭を使っているか)ってことが、もっと一般の視聴者に伝わる方法ってないだろうか。とも思います。

 

例えば、カーリングと同様にあらゆるスポーツで、監督や選手にマイクをつけてもらうってのも面白いと思います。それを副音声で流して、試合中のリアルな思考の中身をのぞけるっていうのは、ファンにとっても魅力的でしょう。

 

あと、サッカーの国際試合直後とかに監督に出演してもらって、試合を解説・検証してもらう番組とかもあれば面白そう。

「相手国は〇〇という弱点があるので、△△というフォーメーションを取りました」とか、「あの時あえて交代しなかったのは、実は□□って意図があったんです」とか、“そこまで深く考えてるんだ!”って発見できる話をじっくり聞いてみたい。

 

戦術がほかのチームにばれてしまうって?

終わった試合の意図が相手にばれても、そこまで致命傷になるとも思えないし、把握されていることを踏まえて新しい作戦をつくれば、戦術のレベルがより洗練されていく気もします。

 

また、これまでも解説者が試合の振り返りをしていますが、あくまでも予想の範疇であって、ほんとのところはやっぱり監督に聞いてみたい。(菅政権にも重なるけど、やっぱり考えをちゃんと説明する時間を取ってほしいんだよね。説明がないから、試合に負けるといろんな憶測ばかりが飛び交って、無用な批判や非難が生じてしまう。)

 

とにもかくにも北京五輪で活躍してくれることを願って、引き続きカーリング応援していきたいと思います。

がんばれニッポン!

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能力がある人が、長く働けるわけではない

退職の理由って、ほんとさまざまです。私の働いていた会社でも、いろんな事情で退職する人を見送りました。

 

退職理由って、表向きはだいたい“新しいことにチャレンジしたいから”というものです。これなら本人は前向きな姿勢で去ることができ(プライドもあるかもしれません。)、送り出す側も激励を込めて送り出せる、両者にとって円満にことが進むわけです。

 

でも、実情は全く異なります。退職者の本音を聞く機会が何度かありましたが、長時間労働に嫌気がさしたり、体育会的な上下関係に辟易したりと、実際はネガティブな要因がほとんどです。

 

それなりの倍率の採用選考を通過してきた人材なので、能力的についていけないから退職するというケースはこれまでほとんど聞いたことがありません。それよりも、労働時間だとか、働き方だとか、“業務遂行の前提条件”でのミスマッチが圧倒的に多い。

 

これって、労使双方にとって、かなりもったいない。なぜなら、働き方の条件が合わないってだけで、能力的に優秀な社員でも退職という誰も望まない状況になってしまうから。

 

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長時間労働とか、転勤させ放題だとかいう典型的な日本企業において、ずっと働き続けられる人の条件って、能力ではなくて、

 

・家族を犠牲にしてでも、仕事に時間を捧げる会社への忠誠心

・単身赴任や家事・育児を一手に引き受けることに理解のある配偶者

 (社内結婚で、その会社の内情が理解できているなど)

 

退職する人たちをみると、こんなことが条件になっていると感じます。

 

一方で、たとえ能力が低くても、会社への忠誠心(いかなる長時間労働・転勤命令にも耐える覚悟)さえあれば、多くの日本企業は能力に応じた部署転換を検討してくれます(良心的なのか?)。

 

個々人の考え方がますます多様化する時代に、こんな条件をもった人だけが働き続けられるのは、お互いにとってデメリットでしかありません。

 

*****

働く側の本音でいえば、下記のようなニーズに沿った働き方が許容されると、より幸せな仕事生活が送れるし、優秀な人が退職するという事態も防げるでしょう。

 

[独身期]

仕事を覚えて、早く成長したいので、残業は問題ない

ただ、プライベートも充実させたいので、上司との酒の付き合いや、休日のゴルフなどのイベントの参加は勘弁してほしい

 

[子育て期]

子育てに専念したいため、(男女問わず)短時間勤務や残業なしの勤務形態にしてほしい

当然、夜の飲み会も控えたい

 

[子ども進学期]

子どもの学費を稼ぎたいので、残業も厭わない

 

[子ども独立期]

夜間・休日の大学院で新しいことを学びたいので、週4日勤務など、仕事のペースを落としていきたい

 

こんな働く人それぞれの働き方やそれに伴う報酬体系を、毎年度末の上司との面談で確認し、翌年度の働き方に反映させていくというやり方もありではないでしょうか。

 

そしてポイントは、業務量から社員の働き方(労働時間)が決められるのではなく、“社員の希望する働き方(総労働時間)を先に規定して、それに沿う形で業務量を決定する(工夫して調整する)こと”です。

 

*****

日本の農業における面積あたりの生産性は、世界に比べて突出して高いといいます。なぜなら、国土が狭い分、その中でいかに多くの農作物をつくるかという試行錯誤をしてきたから。国土が狭いという制約があったからこそ、はじめて人は工夫することができた。

 

企業における社員の働き方も同じで、一人一人が希望する働き方という制約を前提に、組織の運営方針を決める。そこで初めて、条件におさめるために、いらない業務を止めるとか、効率化するといった工夫を真剣に考えるようになる。

 

なので、高度プロフェッショナルとか裁量労働制とかいうような、“企業が労働者の労働時間に制限がある”ということを意識しづらい制度については、宗一郎は反対です。

 

正社員の時間は無尽蔵に使えるという企業の意識から変える必要があるんじゃないかと思います。

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やさしさの連鎖

昔「逃走中」という鬼ごっこをパロディ化したテレビ番組があり(今もある?)、番組内でのタレントのある行為が大炎上となった事件を鮮明に覚えています。番組の構成は、時間経過とともに賞金が加算されていき、鬼から最後まで逃げ切れば賞金を獲得できるというもの。また、途中棄権してもその時点の金額がもらえます。

 

途中棄権する出演者は当時ほとんどいない状況でしたが、2012年にお笑いコンビのドランクドラゴン鈴木さん、2015年にダンスグループE-GirlsのAmiさんがそれぞれ棄権して賞金を獲得しました。ここれに対して猛烈な批判が巻き起こり、鈴木さんに至ってはTwitterアカウントを停止する事態にまでなりました。

 

当時の視聴者の思いは、“たとえ失敗したとしても、最後まで闘い続けることを視聴者は期待している”“お金儲け優先で見ていて面白くない”といったものです。

 

一方、今年、これとは対照的な番組がありました。「クイズ!小学五年生より賢いの?」というもので、クイズの正解毎に賞金額が上がり、こちらも途中棄権で賞金が獲得できる仕組みです。

 

その中で、お笑い芸人のフルーツポンチの亘さんとクールポコの小野まじめさんが、本業である芸人としての収入がコロナ禍で激減する中、家族を養うためという理由で、途中棄権して賞金を獲得するという選択をします。

 

この決断に対して、ネット上ではやさしさや賞賛のコメントで溢れました。

 

選択の背景に家族がいるという、番組演出上のエクスキューズの有無は大きいでしょう。ただ、それにしてもこれほどまでに世の中が真逆の反応を示すことに、宗一郎自身とても驚きました。

 

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変化の要因として、宗一郎はやっぱりコロナ禍の影響は外せないと感じます。私が生まれてから、数々の事件や事故、不幸な出来ことはたくさんありましたが、これほど日本中が(否、世界中が)同じ苦しみを共有する経験はこれまでありませんでした。

 

たとえ、自分自身が苦しい立場ではなくても、家族を亡くした人だったり、友人が経済的に苦境に立たされたりなど、限りなく近い存在が苦しんでいる状況など、ほとんどの人がなにかしらコロナ禍のネガティブな影響を受けてきたでしょう。

 

そして、困難な経験を共有しているからこそ、“共感の思い”も強化されるのだと思います。

 

芸人のサンドウィッチマンは、2人とも宮城県仙台市出身で、東日本大震災当時は東北地方でライブ活動をしていました。その運命を背負って、今日まで“東北魂”を合言葉に、東北復興に向けた活動を地道に続けています。

 

東北地方を思いながら活動している姿は、そしてテレビで活躍する姿は、被災者に人たちにとって、これほど心強く、自分ごとのように共感できる存在はいないでしょう。それは普通のファン以上に、特別な結びつきがあるものだと思います。

 

そして、それが好きな芸人ランキング3年連続1位という結果にも結びついている。公表はされていませんが、おそらく地域別得票数では、東北地方がダントツでしょう。(もちろん、芸人としてのスキルの高さだとか人柄の良さがあるからこそですが。)

 

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「クイズ!小学五年生より賢いの?」で生まれた温かい賞賛の声は、出演者本人の選択に対してだけでなく、出演者を支援する機会をつくった番組制作サイドへの感謝のようにも感じます。

 

やさしさの連鎖って、ネガティブな状況からでも、いや、そういう状況だからこそ生まれやすいのかもしれません。

 

『苦しい経験をする(コロナ禍)→同じ境遇の人に共感する(クイズ番組の出演者)→自分のことのようの嬉しい(賞金獲得)⇒ポジティブな行動(ネットでの賞賛コメントなど)』

 

人間生きていれば、辛いことはいつだって、何度だってあるでしょう。でも、そのできごとのあとが大切で、その経験をふまえてどういう社会や自分をつくっていくか。

 

コロナ禍という世界中が共有する困難を経たあとに、世界中のやさしさの連鎖がつながって、もっともと生きやすい社会になってほしい。そんなことを思います。

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鉄分たっぷりの定額給付金

子育て世帯向けの10万円相当の給付事業が始まろうとしています。

 

給付方法は、最終的に現金とクーポンそれぞれ5万円ずつに分けて給付。現金一括給付の場合の事務費は280億円相当でしたが、クーポンになったことで、その額は967億円上乗せされるとのこと。

 

内訳は、“クーポンの印刷・郵送費”“国・各自治体にコールセンタ設置”“事業者への説明会”などです。

 

この施策、考えれば考えるほどいろんな疑問が頭をもたげてきます。

 

例えば、

 

・結局の目的は、経済対策なのか、貧困対策なのか。はたまた、(老後2,000万円問題に備えて、)国民の貯蓄額を増やしたいのか?

・支給の簡素化と迅速化のために、児童手当の仕組みを活用するはず。そこにクーポンが加わったら、台無しなのでは?

・5万円分の支給方法(クーポンor現金)については、自治体の選択制にするんかい! だったら、最初から現金10万円でいいじゃん。(クーポンなんてこんな面倒くさい支給方法はやってられないから、ほとんどの自治体が現金を選択しそう。)

 

とかとか。

 

*****

なによりも疑問なのは、クーポン券にした理由が“貯蓄できないから、消費を促す効果が期待されている。”というもの。

 

過去にも同じような定額給付政策がありました。1998年に15歳以下の児童のいる世帯、65歳以上の高齢者のいる世帯に、一人あたり2万円の地域限定商品券(地域振興券)を配るというものです。

 

なぜ商品券か? 

⇒当時掲げられていた理由は、現金より商品券の方が貯蓄に回らず、より消費が喚起できるから。

 

つい最近聞いたよ、この文言…

 

結局、クーポンも商品券も、それ自体は貯蓄できないけど、その商品券・クーポンでもともと買うはずだったものを買えば、それだけお金が浮く。

 

だから、その分は結局貯蓄に回ってしまう。もし家計が合理的であれば、現金で所得が増えようが、商品券で所得が増えようが、同じ割合が貯蓄にまわってしまうんです。

 

*****

今回の給付金の目的が、経済対策(消費の喚起)ということであれば、もう少しやりようがある気がします。少なくとも各家庭の財布にあるお金を使わせることを考えなきゃいけない。

 

そうすると、配るのは現金ではなく、クーポンでもなく、割引券がベターでしょう。

 

なんでかって、割引券にすることで、割引後の残額は各家庭の財布からお金がでていくから。その分、世の中にお金がまわっていく。そして、経済が動いていく。

 

さらに、対象商品も、ミルクやおむつといった生活必需品は対象外にする。なぜなら、割引券があろうがなかろうが、そういったものは必ず購入するもので、消費されるお金の量は変わらないから。

 

それよりも、例えばおもちゃとかアミューズメント関連、教育費(書籍・学習塾)などの生活必需品以外の品目を対象にする。“(普段は躊躇するけど、)安く手に入るなら、お金をだそうかな。”と思えるモノを対象にすることで、割引券がない場合と比べて、よりお金が世の中に循環される。

 

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で、こんな疑問だらけの施策、ご多分に漏れず「鉄のトライアングル」の論理がきっと発動してるんでしょう。

 

制度がつくられるときには、いつだって既得権の取り合いが始まる。各“業界団体”は“政治家”に対してロビイングを行って、それを受けた政治家は、“官僚機構”とつながる。そして、既得権を守るための努力をして、業界団体からの票田を獲得する。この3者による既得権確保システムが、「鉄のトライアングル」。

 

自民党福田達夫総務会長は、事務経費967億円の増加について、「事務費はすぐに(市中に)流れるので、考えようによっては経済対策の一部にはなる」と発言。

 

“市中”って、すべての国民のことじゃなくて、票を入れてくれる“特定の”国民を指してるんでしょうよ。

 

今回の給付事業も、もはや鉄分の臭いしかしないよ。

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希望と幸福の微妙な関係

めっちゃ行きたい旅行とか、楽しみすぎるイベント(ライブとかスポーツの大会)の前って、仕事が手につかないくらいそのことばかり考えて、ワクワクしっぱなしになる。

 

けれど、いざ旅行やイベントが始まった途端、(楽しいは楽しいんだけど)妙に冷静になってしまったり、醒めてしまっている。あの高揚感はどこへやら…

 

こういう現象ってなんて表現すればいいんでしょう。

 

宗一郎は、海外旅行の行きの空港で興奮のピークを迎え、旅程が進むにつれてその熱はだんだん冷めていくという、この現象にことごとく出くわします。

 

科学者の落合陽一さんが考える幸せな人は、

ブータンの山奥で、いつか世界を変える(と自分では思っている)ビジネスモデルを作っている人。」

だそうです。これって、“未来への希望”が関係しているのかな。物質的な豊かさは関係なく、未来への希望を持っていることが幸福になるポイントであると。

 

さらに、「いつかが訪れた時点で最大の幸福感は消え去る。」とも言っています。

 

実現するかしないかは関係なくて、希望を心に描ければ幸せな気持ちになれる。むしろ実現してしまったら、希望が無くなって幸福度は下がってしまう。

 

ギャンブルだとか、デートだとか、欲しい現実が手に入るかもしれないというドキドキ感が、人を最も幸福な状態(生きてる!と思わせる)にしているってことなのかな。

だから、成功が手に入ったときには、もう気持ち的には落ち着いてしまったり、醒めた感覚になってしまう。

 

人の身体構造として、心拍数があがったり、アドレナリンが放出する興奮状態のときは、一種の陶酔状態になり、その時点が幸福の頂点であると錯覚するということ?

 

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ただ、一方で、日本の若者は、昔に比べて幸福度が高いという研究結果もあります。なぜなら、今の若者は日本という国を諦めていて、幸福のハードルが下がったから。経済発展が見込めないから、健康とか日々の充実とか、幸せのカタチが小さく身近なものになってしまった。

 

だとすると、必ずしも希望のイメージが大きければ大きいほど、幸福を得やすいというわけでもなさそう。希望のハードルを下げる(諦める)ことで、幸福を得る方法というものもある。

 

図にまとめてみると、こんな感じでしょうか。

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特殊なのは、売れる前のアイドルや発展途上国の若者。彼らは、人気のブレイクや経済的な豊かさといった希望を求めるが、それを追いかけている時が最も幸福度が高い。

 

そして、その後の彼らの人生は4つの運命に分かれる。

 

①挫折(身の丈を知る)

希望を諦めることで、未来の希望のサイズを小さくしたり、希望のカタチをシフトさせることで、幸福を得るという道。“アイドルにはなれなかったけど、今はその経験を活かしてメイド喫茶で人気がでてとても幸せです。”というパターン。

 

②希望が叶うまで追い続ける

あくまでもめざす希望が叶うまで追い続ける。けれど、年齢を重ねるごとに、夢の実現は遠のいてくことを自覚するようになり、楽しさよりも苦しさが勝ってくる。

来世の幸せをめざす修行僧のように、今(現世)の生活を犠牲にして、希望を追うこと自体が目的化する状況。(もちろんそれも尊重すべき生き方なので、否定するとかではないです。)

 

③希望が叶い、新たな目標を得る

念願の希望が叶うが、それに甘んじず新たな目標を見つけ出して、それを追い続ける。

 

④希望が叶うと同時に、目標を失う

新しい目標を見失い、エネルギーが枯渇してしまうパターン。燃え尽き症候群のような状況。

 

③④はともに求めていた希望が手に入るけれど、④は幸福度も希望もなくしてしまう、一番不幸なケースとなってしまうのは、なんとも皮肉です。

 

つまり、“なにかものごとを成功したり、なにかを達成する”そのことではなく、“自分にとってなにが幸せかを考えること”、そして“希望を持ち続けること”が、大事なんだと思います。

 

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みなさんは、『夜と霧』という本を読んだことがありますか?

著者のヴィクトール・E・フランクルが、ナチス強制収容所での壮絶な経験を記録した書籍です。

 

その中で、彼は、

「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」と語っています。

 

フランクルには、収容所の状況を心理学的、学術的に考察し、いつの日か必ず出版して世の中のために貢献したいという、強い使命感がありました。未来に対する希望を忘れなかった。だから90%以上が亡くなった極限の環境から生還することができた。

 

そういうことなんだと思います。

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コロナ禍で燃え尽き症候群

アメリカで“大退職時代”がやってきたという報道がありました。

米国では現在、8月には430万人、9月には440万人と、記録的な数の労働者が仕事を辞めているそうです。年間で換算すると、およそ3人に1人が退職しており、すごい数です。(ちなみに、日本は9人に1人くらいです。)

 

退職理由の第1位は「コロナ禍を経験して、燃え尽きたと感じた」というものです。米国では250万人近くの人が燃え尽き症候群を経験しており、2020年5月に比べて約3倍の増加ペースとなっています。

 

そもそも燃え尽き症候群ってどんな病気なんでしょう?

 

主な症状は、

・個人的達成感の低下

仕事へのやりがいを感じられなくなり、周囲だけでなく自分自身でも業務の質の低下が感じられる。

(こまごまと気配りをすることが面倒、仕事の結果はどうでもよいと思う)

・脱人格化

相手の人格を無視し、思いやりのない態度や仕事上の関係として割り切った行動傾向です。

(同僚や顧客となにも話したくない、顔も見たくない)

 

このような気持ちの状態が続きます。

 

*****

宗一郎は、コロナ禍で燃え尽き症候群が増えるのも必然なんだろうなと思います。

 

その理由のひとつは、過剰なストレスです。

ストレスはよくコップの水に例えられます。一つ一つのストレスの水の量は微量でも、さまざまな要因が重なると、水はコップから溢れてしまう。

 

コロナ禍以前から、仕事上のストレス(長時間労働や厳しいノルマ、転居を伴う転勤など)だけでなく、子どもの世話や親の介護、結婚・出産といったポジティブな変化も含めて、ストレスフルな人は多く、社会問題化していました。

 

そこに、コロナ禍によるロックダウン、テレワーク、急激な景気回復といった新たなストレスが加われば、コップの許容量を超える人が急増するのは、想像に難くありません。

 

もうひとつの要因は、価値観の変化。

多くの人が長い期間にわたるリモートワークを経験し、プライベートの時間が増す・人間関係のわずらわしさから解放されるといったメリットを体感した結果、“働き方ってひとつじゃないよね”とか、“オフィスに戻りたくない”と考える人が出てきた。出社とか、会議とか、飲み会とか、当たり前だと思っていたことが、無駄なんじゃない?って思い始めた。

 

また、経済活動の制限によって貯蓄が増え、金銭的に余裕が持てるようになったことも一因でしょう。

 

これまでの仕事が、まったく異なるやり方でも完結してしまう経験をしてしまったら、働く意味だとか、これからの生き方なんてことを真剣に考えてしまいます。宗一郎もその一人です。

 

*****

退職率の急激な上昇に危機感をもったアメリカの企業では、“週4日勤務”や、“退職金拠出の拡大”といった施策を検討しているようです。確かに、週4日勤務や報酬のアップは労働者にとって魅力的であり、一定の引き留め効果はあるでしょう。

 

けれど、これについて、宗一郎は限界もあるだろうとも感じます。

 

仮に週4日勤務が定着したとしても、その先は週3日勤務の是非を問う時代がきっと来るでしょう。そして、行きつく先には、週0日勤務…? さすがに無理があります。報酬も同じで、いつかは頭打ちになるでしょう。

 

もっともこれらの施策は、ストレスに対する効果は限定的だし、変わってしまった価値観に応えるものにはなっていません。

 

*****

強制的かつ突発的に普及したリモートワークよって、通勤がいらなくなったり、会議が効率的になったり、いろんな面で効率化が進みました。

 

一方で、対面でのコミュニケーションが遮断されたことにより、なにげない挨拶や雑談といったものも姿を消しました。また、その中には、ありがとうと感謝されることだとか、成果を労われることも含まれていたでしょう。

 

コロナ禍によって、働き方の変化があまりにも劇的かつ突然であったため、そのインパクトから、多くの人が“自分の時間が増えた”“自分の人間関係が楽になった”といったような、“利己的”な変化を歓迎する価値観に変わってしまった気がします。

 

けれど、仕事の大原則って、「誰かに喜んでもらいたい」とか、「社会に貢献したい」といった“利他的”な動機から発出するものです。上司や同僚の日々のなにげない声掛けが、会社の帰属意識だとか、仕事への意欲を高めることはよくある話です。

 

リモートワークがいくら発達しようと、(近い将来)メタバースが普及しようと、“仕事は利他的であること”を啓発し続ける取り組み(マネジメントやコミュニケーション)が企業に求められるんだと思います。

 

これは日本人だって、外国人だって同じでしょう。人間、報酬とか労働環境だけでは働き続けられない。そんなに簡単には割り切れない。

 

燃え尽き症候群になってしまう人は、情緒的に力を出し尽くし、消耗してしまうといいます。そんな状況に陥る前に、仕事の目的は、“利己的ではなく、利他的であること”を思い出させてくれる上司や職場環境があれば、もうひと踏ん張りできる人もいるんじゃないでしょうか。

 

また、この病気は、ひたむきに他人との深い関わりを保ちながら仕事をするという特性の人が発症しやすいそうです。利他的に仕事に向き合う人の方が、一旦その梯子が外れると、反動も大きいということなんでしょう。

 

新しい生活様式であっても、感謝だとか情緒だとか、そういった当たり前で基本的な人間の感性をケアできる企業がこれから生き残っていくでしょう。

 

そんな会社に巡り会えれば、幸運といえそうです。

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〇〇が〇〇を生む

お金持ちって、ほんと羨ましい。改めて思います。

 

なにが羨ましいって、単純にほしいものが買えるとか、行きたいところに行けるとか、いうことはもちろんなんです。けれど、宗一郎はなによりもお金がお金を生む仕組みが使えるってことが、なんとも羨ましいというか、歯がゆいというか…

 

だって、働いている人のほとんどって、お金のために働いているわけです。誠実に働く人ほど、お金が貯まって幸せな人生を送れるっていうのが、あるべき世の中ではありませんか?(やっかみ)

 

でも現実って、そうじゃない。お金って自分で働くことができる。お金は多ければ多いほど、その分お金が自動的に働いて、自分で増えていってくれる。そういう自己増殖装置がついてます。

だから、お金持ちは自分で働かなくても、一生懸命働いている人よりも、お金を稼ぐことができる。

 

・10億円の不動産を持っている企業が、テナント収入で1000万円稼いだ

・何も資産を持っていない企業が、全社員による飛び込み営業で1000万円稼いだ

 

同じ1000万円でも、自分自身の費やす労力は、桁違いなわけです。

 

なんたる理不尽(怒)!

…って愚痴ばかり言っててもしょうがないので、コツコツお金を貯めていこうと、改めて決意を新たにします。

 

さて、この〇〇が〇〇を生む仕組みって、とても便利ですよね。この仕組みを、お金はもちろんあらゆることに活用できたら、もっと人生が豊かになるんじゃないかとも思います。

 

*****

では、お金以外のことで、〇〇が〇〇を生むものって、どんな場合があるんでしょう。ざっくり思いつくのはこんな感じです。

 

①能力

・英語が堪能な社員が、海外との協業プロジェクトメンバーに選ばれて、仕事の中で英語力がより磨かれるというように、能力が能力を生むという状況があるでしょう。

・部活動でも、県の選抜に選ばれるほどの能力であれば、選抜メンバーによる練習や試合を通じて、実力があがっていく。選抜外のメンバーとの実力差はますます開いていきます。

 

②信用

・地味で誰もやりたがらない雑務をこなしていると、それを誰かがちゃんとみていて、次はよりやりがいの仕事を任されるといった話はよくあります。

・クレジットカードにおいても、期日までの返済を繰り返せば(そしてそれが高額であるほど)、より上位のグレードの入会資格が付与されていきます。

・優しさが優しさの連鎖を生むという現象も、この範疇に入るんでしょう。

 

③経験

プロ野球で選手や監督として、一流活躍の経験がある人は、解説者の経験をするチャンスを得やすい。

・経営者の経験した人が、他社の顧問としてオファーを受けるというケースも同様です。

 

以上が、ポジティブなケースです。一方で、ネガティブなケースもあり得るでしょう。

 

❶不健康

・病気がほかの病気を生む、合併症を抱えるといったケース。

・腰が痛くてかばっていたら、体の他の箇所に負担がかかって、膝も痛くなったというように、体の痛みが痛みを生むということも。

 

❷不信

・過去の過ちや犯罪によって、将来の就職や結婚に悪影響を与えて、それが貧困につながっていくというような、信用度に関わる連鎖といったケースが該当するでしょう。

 

❸借金

・資産の裏返しで、多重債務のような、借金が借金を生むケースです。

 

〇〇が〇〇を生む仕組み、味方につければ便利そうですが、使い方を間違えると、負の連鎖を引き起こしてしまう。いかにポジティブなものを増やしていくかがポイントになりそうです。

 

*****

では、ポジティブなサイクルがうまくまわすためには、〇〇をどの程度のレベルにまでもってくる必要があるんでしょう。

 

もちろん一概にはいえるもんじゃないだろうけど、宗一郎としては、“他者が未来の可能性に期待してコストをかける(投資する)”状況というのがひとつの目安なんじゃないかと思います。

 

能力的に優秀な者にタフアサインを付与するのも、経験値の高い人にさらに新しい経験を付与するのも、そうすることで将来大きなリターンが得られると期待するからなんだろうと思います。だから、ある特定の〇〇にリソースが集まって、〇〇が〇〇を生む現象ができるってことなんじゃないかと。

 

ちなみに、具体的なコストってこういったものが挙げられます。

 

1.経済的コスト(お金)

2.時間的コスト

3.肉体的コスト(労力・手間)

4.精神的コスト(不安・気を遣う・楽しい)ストレス

 

他人がこういったコストをかけたいと思わせる何か(能力、信用、経験など)を持っていれば、〇〇が〇〇を生むというサイクルがまわりだす。

 

いわゆる“推し活”なんかはあらゆるコストが関係してきます。ファンが「この人が好き!この人のためなら全国どこにでも、応援に行くわ!」と思わせるくらいの“何か”があれば、経済的・時間的・肉体的・精神的コストをかけるに見合う、と判断されることになります。

 

逆にネガティブなサイクルに入る基準ってなんでしょう?

他人に借りがある状況? でも、不健康に対しては当てはまる感じがしないし。

 

この点については、継続して考えていきたいと思います。

 

いずれにしても、他人がコストをかけていいと思えるほどの何かをもっていれば、指数関数的にその価値を高めていけるポテンシャルがあるってことかな。

うーん、自分にはなにがあるだろう。。。

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嗚呼、歯医者さん

初めて“歯医者さんの数ってコンビニより多い”って聞いた時、心底びっくりしました。

 

普段意識していないだけなのか。意識して町中を歩けば、コンビニよりも多くみつかる?いやいや、そんなこともないでしょ。

 

コンビニエンスストアなんて、下手したら100m置きくらいの間隔でみつけられるのに、それより歯医者さんの方が多いってマジで信じられない…

 

でも、事実、歯医者さんはコンビニより多いらしいんです。コンビニの数は、56,000件である一方、歯科医院の数は約68,000軒もある。2割以上も多いんです!

 

もっと信じられないのは、経営って成り立ってんの?ってこと。一人当たりの客単価は違うとしても、コンビニに比べて、明らかにお客さんの回転率に差があるし、ましてや毎日通うような場所でもない。

 

仮に日本国民の20%(それでも、だいぶ多いけど…)が毎月歯医者に通院するとして、歯科医院1軒あたりの売上シミュレーションは、こんな感じでしょうか。

 

・2,400万人(国民の20%)/68,000軒(歯科医院数)=352人(ひと月あたりの患者数)

・352人(ひと月あたりの患者数)×6,000円(一人当たりの診療報酬(2,000円(自己負担)+4,000円(健康保険)))=約211万円(月間の売上)

・約211万円(ひと月あたりの売上)×12か月=2,532万円(年間の売上)

 

単純計算で、1医院あたり、年間2,532万円の売上。

経費としては、歯科衛生士さん・受付さんの人件費、医院の賃料、設備投資、備品代などが諸々かかると。。。

 

直観として、歯医者さんって儲からないでしょう。

 

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昔は虫歯が多く、社会問題化していたこともあり、歯医者さんはむしろ足りない状況でした。けれど、今は虫歯予防の意識も高まり、家庭でのセルフケア用品も発達してきたため、虫歯自体が減っている。

 

お母さんが赤ちゃんの食べ物を冷ますために一度口に含んで食べさせる、といった習慣も虫歯予防の観点からなくなりました。そういった国民一人一人の意識向上も、歯医者のニーズを小さくしてきたでしょう。

 

こういう状況では、歯医者さんにとって大事なのは、“治療技術”云々以前に、患者さんの囲い込みが最優先課題になります。“立地や診療方針を決めるマーケティング力”だとか、“お年寄りとも世間話やおもてなしで信頼関係をつくれる営業力”など、経営者としての資質が求められる。

 

特に大変だと思うのは、これから開業を考えている若い歯科医師です。

全国どこにいっても、ベテランの歯医者さんが営業網を敷いていて、新規開拓の余地はほぼない。しかも開業医って定年がないので、そういった地盤が40年、50年も続いていく。

 

診察の経験も施設にかけられるコストも小さい歯医者の卵が市場を開拓するには、まずは地域を牛耳ってる歯科医院に勤務医として働いて、院長先生にかわいがってもらいながら、地元のお客さんたちと少しずつつながりをつくっていく。

 

そんな地道な草の根活動を続けていくほか方法がない。もはや政治家と一緒だよ…

 

矯正歯科やインプラントなど、自由に料金を設定できる保険診療外の治療法を取り入れるという方法もあるけど、それだってすでにレッドオーシャンです。

 

ちなみに、平均年収は、562万円だそうですが、あくまで平均であって、勝ち組負け組がはっきりしているのは容易に想像がつきます。業界内における、年収の統計的ばらつきはかなり大きいでしょう。

 

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歯医者さんのように、コンビニよりも店舗数が多い業界ってほかにあるのか?

 

代表的なのは、美容室です。

美容院の件数は約240,000軒!なんと、歯医者の約3.6倍にものぼります。

 

歯科医師に比べて、需要は多い(髪は伸びますからね)ものの、当然保険診療なんてものはないし、客単価は低い。それに、歯医者のように規制に守られているわけでもなく、格安カットチェーンといった強力な新規参入と戦わなくてはならない。

 

この業界も、カットの技術だけでなく、SNSでの情報発信や、顧客とのコミュニケーションなど、人気取りのための努力は必須といえそうです。

 

ほんと、世の中どんな仕事も甘くないですね。

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公共交通機関の企業努力

先日東京23区内のバスを利用した時にふと気がついたことがあります。

 

バスの前方が入口で、中央部分が出口になっています。

 

23区外や他県のバスって、中央部分が入口で、入場時に乗車地点を示す紙切れを受け取るか、ICカードに記録して、乗車距離に応じた料金を前方の出口で支払うって仕組みです。

一方、入口が前方の場合、距離に応じた運賃システムが使えないため、どれだけ長い距離を利用したとしても定額料金(210円)になります。

 

定額制は、距離別制に比べて売上が減るでしょう。それでも、どうして23区内のバスは前方入口方式にしたのか?

 

最大の理由は、乗降者時の混雑を避けるためでしょう。

人口も利用者も多い23区では、定額にして事前に小銭やICカードを用意してもらうことで、乗り降りをスムーズにする。

さらに、乗客の流れ方としても、中央が入口の場合は乗車客と降車客が社内でバッティングしやすいので、先頭を入口にすることでそれを緩和している。ということだと思います。

 

財政が豊かな23区だからできるという見方もありますが、利益よりも乗客の利便性を優先する公共交通機関の取り組みは、純粋に評価できることです。

 

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公共交通機関って、目に見える形でどんどん進化していくのが楽しいですね。

 

宗一郎が子どもだった頃は、まだ切符切りの駅員さんが存在してましたが、いつしか自動改札機になり、ICカードが登場し、そのカードは改札だけでなく、あらゆる店舗で使えるようになりました。

 

そのICカード、未だにほかのどの非接触決済よりも使い勝手がよいというのも驚くべきことです。

 

インバウンド対応についても、英語・中国語・韓国語表記はもちろん、路線図を色とアルファベットで視覚的に表現する工夫や外国語対応スタッフの配置などが進んでいます。

 

安全対策は、コストが大きくかかる各駅のエレベータやホームドアの設置の推進を着実に推進しています。

 

“自分たちは営利企業である前に、社会インフラを支える組織なんだ”という自負をひしひし感じます。

 

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コロナ禍は、鉄道会社にとって大ピンチだったに違いありません。首都圏通勤の電車利用率が85.2%という状況の中、テレワークが急速に浸透し、電車の利用客は激減しました。

 

一方で、宗一郎もテレワークを行っていましたが、特に小さい子どもがいる家庭にとって会社と同じように集中できる環境をつくるのはかなりの困難で、いざ作ろうとしてもコストやスペースの制約を理由に、断念する人も少なくない。

 

かといって、長時間かけて会社まで通勤をする必要性も薄れている。それが実態でした。

 

そんなジレンマを見逃さずに、ビジネスにつなげたのも鉄道会社でした。

 

駅というインフラを活かした駅ナカや提携ホテルでのレンタルオフィス、在来線での有料通勤特急による車内オフィス化などを推進。

また、ラッシュの時間帯を避けて通勤できる人や、出勤勤務と在宅勤務を組み合わせている人など、コロナ禍により新しく生まれた通勤パターンにも対応できるポイントサービスもすぐに導入しました。

 

鉄道会社がめざす姿がいまだに“鉄道利用客数の増加”であったなら、ピンチはピンチのままだったでしょう。

 

コロナ禍になってから、わずか1年半の間に、新しい価値を考え実行するスピード感には驚きです。たとえ公共交通機関が減っても、顧客を取り逃さない執念すら感じます。

 

最近発表された世界都市ランキングの“働き方の柔軟性”指標において、東京が41位から2位に急上昇する結果となりました。鉄道産業の寄与する部分は大きいでしょう。

 

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テレワークの浸透や少子高齢化により、鉄道の利用者は減少していくため、点と点を結ぶ線は細くなっていく。

 

その代わりに、点(駅)そのものを大きく、そして彩り豊かにしていく。

 

鉄道会社はもはや運輸業ではなく、駅を中心とした“生活圏創造企業”をめざしていくのでしょう。

鉄道会社にとって、顧客は、電車の利用客ではなく、駅を訪れるすべての人になります。

 

今後自動運転車がいくら普及しても、それは鉄道会社のライバルにはなりません。

むしろ郊外の大型ショッピングモールがシェアオフィスや保育所ビジネスに乗り出したら、鉄道会社にとっては脅威でしょう。

 

“産業の垣根がどんどん取り払われている”、鉄道会社のしたたかさをみると、改めてこの言葉を思わずにはいられません。

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Withコロナにおいて、残ってほしいもの

新型コロナウィルスの感染状況が10月以降落ち着きをみせています。もちろんまだまだ油断はできませんが、(日本に限れば)“収束宣言”という出口が少しずつみえてきた気もします。

 

人類は1934年のインフルエンザウィルス発見から、これまでずっとWithインフルの中で生活してきたわけですが、今後はそれにWithコロナが加わります。

 

コロナを経験したこの2年間、大きく変わったもの(変わらざるを得なかったもの)がたくさんありますが、コロナ収束後にも、世の中に残るものってなんでしょう? 予想してみました。

 

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[店舗全般]

従来の手洗いうがいに加えて、消毒液の設置は今後も続くでしょう。多くの人の衛生観念のレベルが一段上がって、ことあるごとに手を消毒しないと落ち着かなくなってしまいました…

 

ちなみに、日本で手洗い・うがいが定着したのは約2500年前の古墳時代で、大きな疫病が流行った際、崇神天皇が神社に手水舎をつくり、手洗いや口をゆすぐことを推奨し、食前やトイレの後にも手を洗う習慣が生まれたようです。へー。

 

[飲食店]

パーテーションの設置は感染対策だけでなく、コロナ以前から大学食堂にあるような、おひとり様用座席の機能を兼ねて定着するでしょう。

なによりソーシャルディスタンスの確保に慣れてしまったので、知らない人と肩寄せ合ってラーメンを食べる。といった状況に慣れるまでまだ時間がかかりそうです。

 

また、感染症研究のシミュレーション映像を通じて、飛沫がめっちゃ飛散することが可視化されてしまったため…、店員さんのマスク着用はこれからも続きそうです。

 

ちなみに、日本でマスクが定着した理由は、1918年のスペインかぜや、花粉症の予防だけでなく、学校給食の配膳、若者のファッションアイテム化、日本人が感情を読み取るときに“目元”を重視する文化(欧米は“口元”を重視)などが影響しているようです。へーへー(しつこい)。

 

[会社]

BCPの観点から、緊急時のプロセス見直しやテレワークを含めたインフラ整備、従業員の業務継続力など、“企業の危機対応能力”は格段に向上しました。

Withコロナから少し逸れますが、最近の電車内での事件を踏まえて、防犯というリスクヘッジの観点からもテレワークの活用は多くの企業で継続されていくでしょう。

 

[テレビ]

ワイドショーなどでの出演者のモニター出演は継続しそうです。コメントだけのために全員同じ場所にいる必要はないし、スタジオ出演は交通費・弁当・メイク・楽屋準備など、諸々コストもかかるしね。

 

[スポーツ・エンタメ]

オンライン視聴の仕組みの進化により、オンサイト以外の選択肢が増えました。事業者側にとっても新たな収入源として、Web視聴は定着していくと思われます。

 

[住宅・建物]

住宅の間取りの中に、テレワーク用のスペースを確保する傾向に進むでしょう。同時に、換気(空気の流れ)を重視した空調設備も進化していくと思います。

 

また、今後レンタルシェアオフィス以外にも、極小アパートをテレワーク用に賃貸する流れも増えてくるかもしれません。

 

[学校]

小中学校でタブレットの配布が進み、オンライン授業の整備が一気に進みました。

インフラは整ったので、学習は日本で一番授業がうまい先生がオンラインで担い、現場の先生は進捗状況のフォローや家庭環境を含めたメンタルケアなど、“こころの豊かさ”を育む役割を担うといった分担も、あり得るのではないかと思います。

 

[政府](期待と希望を込めて)

感染症を含めた有事における医療機関等の対応力強化(国外からの感染経路封鎖、各病院のリソース共有の仕組みなど)

 

*****

コロナの経験を通じて、宗一郎がもっとも変わってほしいのは、“あらゆる人の選択肢が増える社会”の実現です。

 

会社や学校に出社/出席しなくてもいい自由

飲み会に参加しなくてもいい自由

社会が危機的な状況になっても、困窮しても自分らしく生きていける自由

 

コロナによって、今までの当たり前が崩れ、“いろんな選択肢があるじゃん”“これまで普通だったことがなくなっても、案外平気だね”ってことを日本全体が知りました。

 

社会の成熟って、選択肢が増えることだと思います。

 

コロナが収束してから数年後、日本は選択の自由度が増して、より豊かな社会になっているのか、はたまた同調圧力の強い不自由な社会に逆戻りしているのか、宗一郎はこの点を興味深く見守っていきたいと思います。

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成長してどうするの?

最近よく、就職活動での企業選びの指標として、“成長できる会社”というセリフをよく耳にします。転職支援企業の広告とかでも、やたら“成長できる企業”特集なんかを組んで、“成長”って素晴らしい!ってな感じで、労働者を盛りたてています。

 

一見もっともらしい印象を受ける言葉ですが、

「みんなほんとに成長さえすれば、人生がうまくいくと思ってるの?」

“成長”という言葉を聞くたび、宗一郎はそんなことを感じます。

 

*****

多くの人がいう成長って、仕事をする上での能力・スキルが上がることだろうと思います。

つまり、[スキル・能力があがる]→[やりがいのある仕事・ポジションにつける]→[収入が増える]→[充実した人生]というプロセスをイメージしている。

 

でも、“成長”ってあくまで自分の幸せな生き方を達成するための、ひとつのツールであるに過ぎないものです。幸せな生き方への道筋って幾通りもあるはずで、ルートAでは成長が不可欠でも、ルートBでは必要ないもの、そういう類いのモノです。

 

なので、まず成長ありきで考えるより、自分は“どんな生き方をしたいのか”を先に考えた方がいい。“成長”という曖昧模糊とした言葉で濁してしまうと、具体的な行動に移せない。

 

それと、成長できたからって、必ずしも給与が上がるとも限りません。昇格だって、企業の業績による組織編成や同世代のライバルの人数、査定する上司との相性、そして運など、自分の成長だけではどうにもならないことだらけです。

 

蛇足ですが、仮に収入が増えたとしても、日本の税制上、年収1,000万円と年収500万円では、毎月の給与は、額面では32万円ほどの差ですが、手取りになると21万円ほどの差に縮まります。

 

また、高給取り世帯は、周囲に合わせていくことで、住居費や教育費のコストも上がる傾向があり、収入ほどの余裕は感じられないようです。

 

給与が増えるに従い増える税負担。給与が増えれば生活水準があがり、支出も当然増えていく…

 

給与アップのために、成長を追い求めて、毎日必死にジャンプする人生って、成長っていう言葉だけでは続かないし、いつか身体を壊してしまいます。

 

なので、近頃の一種の“成長神話“になにか違和感をもつんです。

 

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なぜこれほど“成長”という言葉が市民権を得ているのか。それは、国や企業、お金持ちにとって都合のいい言葉だからです。

 

成長って元来資本家のための言葉であって、成長が不可欠なのは、働く人個人ではなく、資本主義という制度です。借金&利子という仕組みがある以上、資本主義とっては成長が大前提。

 

以前のブログ(幸せな働き方の準備)にも書きましたが、労働者は、基本的に“明日も元気に働くための必要経費”分の給与しかもらえません。なので、歯を食いしばって頑張って利益を出せば出すほどほど、得をするのは、労働者ではなく資本家です。

 

少子高齢化による働き手減少や、業務効率化の競争の流れから、より少ない人数でより効率的に業務を行っていく必要がある。だから、世の中に“成長”って言葉が溢れているんです。

 

企業にとって、文句も言わず勤勉でよく働き、安い給与で高い利益を出してくれる労働者になってくれよって、ことです。

 

同じような意味で、“キャリアアップ”という言葉にも違和感があります。企業が掲げるキャリアアップって、あくまでその企業内での仕事の範疇での話です。

社外転身を希望する社員のキャリアを本気で考えてくれる企業は、まぁ存在しないでしょう。

 

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成長ができたとしても、長時間労働や人間関係の不和によって、結果として不幸では意味がありません。“成長”って、これさえ得られれば人生うまくまわりだす、ってことではなく、ましてやゴールでもありません。

 

最後に、誤解のないように付け加えますが、宗一郎は決して“成長”が不要だとは思っていません。自分にとってのゴールに必要であれば、成長をめざすべきです。

けれど、やみくもに“成長”を鵜呑みにするのではなく、自分にとってどこまで大事なのかを、もう一度考えてみる必要があるんだと思います。

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一生懸命さの基準

日本人はよく働く、昔からよくいわれていることです。

 

でも、若者のニートが増えているというニュースをみたり、コンビニや飲食店でのふとした時に、塩対応の接客態度に遭遇して傷心するたびに、それってほんとか?とも思うんです。

 

むしろ、日本人より外国人の店員さんの方がよほど日本人より元気があって、気持ちのいい接客をしている印象です。

 

日本の飲食店など、いわゆる時給の仕事では、圧倒的にアジア人が多い。それは、母国の物価が安く、母国との移動距離が少ないことはもちろん、日本の語学学校の進出が加速するなど、日本語を学べる環境が他地域に比べて整っていることもあります。

 

一方、ヨーロッパ人はあまり働かないといわれます。たしかに、欧州に旅行した際、レストランや駅などでの対応をみると、日本人ほど丁寧な接客はしていません。

日本においては、そもそもヨーロッパ系の人が働いているところを(街中で)みる機会自体がありません。

 

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日本人・外国人に関わらず、一生懸命働く(少なくとも、そう見える)人と、そうでない人の違いってなんなんでしょう。

 

それはパーソナリティの問題で、一生懸命働く人は、もともとそういう性格なんだ。という意見もありそうですが、果たしてそうでしょうか。

 

例えば、カフェでバイトを始めたとして、仕事を覚えたての頃は誰もががむしゃらに一生懸命働きます。

 

それは、“仕事ではなにも貢献できない分、やる気で挽回しよう”だとか、“多少のミスも元気に免じて許してもらおう”といった気持ちからです。

また、一緒に働く人に対して、仕事を教えてもらうための一種のアピールでもあるでしょう。(仕事を教えてもらえないことは、新人にとって死活問題)

 

新入社員が、挨拶や飲み会の幹事をしつこく指導されるのは、わかりやすく(目に見えるように)一生懸命さを上司や先輩に示して、育ててもらう環境を意図的につくるためです。

 

一方、月日が経って店長の代理を任されるような頃(長老?)には、接客の態度に帯びる熱はいくぶん落ち着くケースがほとんどでしょう。

 

仕事を通じて経験値が上がり、“仕事そのもので貢献できる”ようになったため、後ろめたさの挽回や周囲へのアピールの“必要性”がなくなった、ということです。

 

なので、一生懸命さのありなしって、個々人のパーソナリティというより、その仕事に対する“熟練度の度合い”との相関が強いのではと感じます。

つまり、熟練度が低い=仕事の具体的スキルや知識、使用する言語力が低いときほど、人は一生懸命さを表現するということです。

 

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けれど、熟練度に関係なく、一生懸命さを前面に表現している仕事もあります。アメ横のお菓子売りや、築地市場の競りなどは、その代表例でしょう。

 

ベテランの職人さんが、一生懸命声を張り上げて仕事をしており、そこに熟練度の高低は影響していません。なぜなら、一生懸命を示すことが、仕事の成果を直接決めるからです。

当然、お菓子売りだけでなく、売上高で成果が決まる営業職なども同じでしょう。

 

また、共産国のような、いくら頑張っても給与が変わらない状況と、資本主義の国とでは、一生懸命さが異なるのは明らかです。

以前、出張でロシアに行った際に、市場の店員さんのやる気のなさにびっくりした覚えがあります。

 

なので、“その仕事を取り巻く環境”も要因となり得るといえます。

 

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一生懸命さを表にだすかどうかの傾向って、おそらく国籍や人種関係なく、共通の原理なんだと思います。日本人が外国にいけば、その土地での振る舞いになるだろうし、外国人が日本に来た場合でもしかり。朱に交わればってやつです。

 

今後塩対応にあたっても、いろんな要因があるからね、と想像しながら対応すれば、少しは傷つかずにすむのかな…

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