逸失利益

逸失利益という制度があります。

 

事故などで支払われる損害賠償金のひとつです。賠償金の内訳は、精神的苦痛に対する慰謝料や葬儀費用などで構成されますが、その中でも逸失利益は高い割合を占めます。

 

この逸失利益、どうやって金額が計算されるかというと、“将来得られたはずの収入や生活状況”をベースに算出されます。

 

例えば、35歳男性が事故で亡くなった場合、年収800万円のAさん、共働きで子ども二人を育てていると、賠償金はおよそ1億4000万円になります。一方、年収300万円で独身のBさんでは賠償金はおよそ5000万円と、金額が大きく変わります。

 

また、性別や障がいの有無によって計算根拠が異なったり、在留期限のある外国人労働者は日本ではなく祖国の物価水準で計算され、逸失利益が低くなったりします。

 

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なかでも辛いのは、被害者が障害者や未成年者であるケース。

 

例えば、(聴覚などの)障がいがあること理由に、事故を起こした側が賠償金を低く提示することがあります。

 

・聴覚障がい者は、思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職も難しい

・たとえ就職できたとしても、被害者の聴力はコミュニケーションに重大な支障をきたすため、職種が限られ収入は低くなる

こんなことを加害者の意見として聞かされる。

 

また、大学受験を直前に控えた高校生が事故で寝たきりとなったケース。

 

家族は大卒の平均年収での算出を求めたのに対し、相手側は中卒や高卒を含めた全学歴を基準にすべきと主張。被告の主張を覆すためには具体的な証拠が必要なため、家族は作業療法士の志望動機が記載された書類を提出。

 

すると今度は、めざしていた介護職の平均年収は低く、たとえ就職しても大卒平均には到底及ばないとして職業を理由に減額を主張。

こんなやり取りが延々繰り返される。

 

家族の“悔しいというか、2度殺されたという気持ち”“過去のことを掘り下げて調べないといけないのはしんどい”といったコメントは至極当然でしょう。

 

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この制度、“性別や学歴、障がいの有無によって、いのちに値段がつけられること”だとか、“不確実性が高い社会で将来の収入を計算すること自体が困難”など、抱える課題は多い。

 

なかでも、宗一郎が一番問題だと思うのは、“被害者の心情に寄り添っていない”制度だってことだと思うんです。

 

ただでさえ、家族が亡くなったり、大きな障がいをかかえることになった状況で、これ以上精神的な苦痛が生じさせないことを最優先にすべきでしょう。

 

被害者が求めているのは、“加害者の誠実な態度”であるのに、こんな交渉事が始まった途端、そういったことが見えなくなってしまう。加害者側だって、嫌がらせが目的で減額を主張している訳では決してないでしょう。だけど加害者にだって、家族がいるなど、金額交渉が必要となるなにかしらの事情があることは想像に難くありません。

 

また、収入が得られる蓋然性(物事が実際に起こるか否かの確実性)の証明のために、被害者側が証拠を集めなければならない、という(精神的・肉体的な)負担の問題もあります。

 

逸失利益を算出自体も大きな課題でしょう。

 

“将来得られたはずの収入や生活状況”で計算されるといっても、実際は予測がつくようなものではありません。

今収入がたくさんあっても、その後どうなるかわからない。失業するかもしれないし、お金を稼げなくなるかもしれない。あるいは、今は非常に低い収入だけど、将来大成功するかもしれない。

 

こんなことをどうやって証明していくのかというと、いくら緻密に、どこまでやってもフィクションです。

 

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なので、事故の当事者間で金額を交渉する今の仕組み。まずはこれを変えないといけない。

 

例えば、収入面の損失と精神的な苦痛について、収入面は公的な保険制度(健康保険の傷病手当金のように、世帯収入の3/2を補償するようなイメージ)を適用して、機械的に金額が決まる仕組みにする。

それに加えて、現行制度は慰謝料の占める割合が小さいので、それを増やすことによって、最低限補償的なものをつくるという方法もあるでしょう。

 

とにかく、“当事者同士が交渉する”だとか、“属性によって金額が大きく変わる”といった要素を無くす努力が必要です。

 

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最後に、今の制度を是とすることが、すなわち司法が格差を肯定しているといった社会へのメッセージになってしまうことも危惧されます。

 

・学歴や性別、障がいの有無などの属性が不利に働く=社会的に生産性の低い人と判断することは許されるのか

・そもそも、社会において生産性が絶対であるといった価値観は正しいのか。

 

こういった疑問に対して、逸失利益の制度は果たして耐え得るのか、ということです。

 

この制度を考えることは、どんな社会を生きていきたいのかを考えることそのものである、ともいえると思います。

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